――あれは誰だろう。
エレベーターの前に誰か立っている。茶色のスーツを着た、痩せた背の高い男だ。
私は平素よりあまり他者へ関心がない。自分の執務室の隣が誰なのかすらよく分からない。
仕事上の付き合い以上のものも極力控えていた。
煩わしいのだ。
私は罪と戦わねばならぬ。余計なものは枷になるだけだ。
――誰だろう。
でも何故かとても気になった。出来ることなら関わりたくない。傍に寄ることすら、第六感とでもいうのだろうか、嫌だ。
多分、この男は、不吉だ。
執務室に戻るのに階段を使おうか、そう思ったとき―チン―高い電子音が鳴った。
扉が開いて男が此方を見ていた。
壮年、私よりふた周りほどの上の年齢だろうか。凡庸な顔つきの男だ。
「乗らないのですか」
神経質そうな声だ。鼓膜を引っかかれるような声に私の足が止まる。不快だ。
黙っている私を訝しんだのか、もう一度苛々したように「乗らないのですか」と聞いてきた。
「…乗ります」
12階分の階段を上がるのが億劫なのは事実だ。ただの私の主観で見ず知らずの彼を毛嫌いしても仕方がないだろう。
正面に鏡が張られたエレベーター内へ踏み込む。男とすれ違いざま胸に光って見えたのは―秋霜烈日。
同僚か。少しほっとした。彼に身勝手な嫌悪感を抱いてしまったのは疲れているからかもしれない。
先日終わった宝月巴の裁判、更にSL9号事件の後始末に大層追われていたのだから。
12階のパネルが点灯している。ならば彼も上級検事なのだろうか。
扉が閉まり、空気が沈み、胃が浮いて、機械音と共に箱が上昇を始めた。
息苦しさと耳鳴り、慣れたものだ。12階までなら大した時間ではない。ただ、後方に立つ男の視線が気になった。
「昨年の年末は大変でしたね」
どきりとした。面と向かってでも私にその話題を振る人間は珍しい。
嫌な汗が流れる。
「それがのうのうと戻ってきて、検事オブザイヤー。巌徒局長も宝月検事局長もいなくなって、あなたの思うまま、ですか」
「…そんなこと」
何だこの男は、誰だ?
こんな嫌みならいくらでも言われてきた。でもどうにも神経が逆撫でされる。
早く12階へ着いてくれ。
――6――7――8――遅い。指先が震える。まるで何分も経っているような。
――9――10が点滅す、
ガタン。
突然箱が激しく振動し、私はよろめいて壁にぶつかった。機械が呻り声を上げて静寂が訪れる。
―――…エレベーターは…動いていない。
「……!!」
声が出ない。息苦しい。私は入口の扉を狂ったように叩く。ああ、窓ガラスの向こうは壁だ。
非常通話を― 震える手を備え付けのボタンへ伸ばす。
その手をパシリと払われ、落ちる手を目で追おうとした私の頬を衝撃が襲った。
「実に無様だ。御剣検事」
殴られた私は床に座り込んだ。びりびり熱をもった頬が熱い。何故。お前は。
「私のことなど知らんのだろう。君のような人間にはな」
「…な、何のこと、だ」
男は口角を上げる。嫌な笑いだ。男が片足を上げる、その先には私のポケットから落ちたのだろう秋霜烈日バッジが。
咄嗟に拾い上げようとすると、手の甲ごと踏みつけられた。靴の踵が食い込む。
「ぐっ…!」
「何がバッチはつけないほうがお洒落だ。狩魔の教えが罷り通っている!滑稽だ!
あいつや巌徒のお陰でどれだけの人間が苦汁を飲んできたかわかるのか!若造!」
男は唾を吐きながらそう捲し立てるとその足で私を蹴り飛ばした。碌な抵抗も出来ず床に転がる。
体が上手く動かないのだ。息が苦しい。
「狩魔も巌徒も人殺しの狂人だ!漸くあいつらがいなくなったと思ってもまだ貴様が残っている!
比護を失ったくせにでかい顔をしてなっ!貴様の出世もどうせ股でも開いて掴んだものだろう!?」
そんな訳はない。私だって天才などと謳われてはいるが、血反吐を吐く思いをしてこの地位にいるのだ。
恥を晒してまでここにしがみつくのは私の誇りだ。
それをこの男は、出世ができないのは己の努力と能力が足りないからであり、逆恨みもいいところだ。
男が喚いている。五月蝿い五月蝿い五月蝿い、そんなに怒鳴ったら酸素がなくなってしまう。
私はまだ子供だから、エレベーターの隅で震えることしか出来ないのだ。
…違う。それは―
「御剣検事、知っているかね?君は具合のよい肉便器だという噂がある。狩魔や巌徒に調教された、ね」
髪を掴まれ、男の生臭い息が顔にかかる。近すぎて男の顔がよくわからない。
凡庸な顔が暈けている。
「折角の機会だ。こんな僥倖、棒に振れるか。―凡人の私にも楽しませてくれたまえ」
男が歪な笑みを浮かべた。
「や、やめろ!」
悲鳴を上げた私の口に男の性器がねじ込まれた。私の頭部を乱暴に抑え喉の奥にぶつけてくる。
牡の青臭い臭気が鼻に抜け、吐き気が込み上げる。生々しい肉の塊が私の口内を犯す。
「ふっ、あの、御剣怜侍に、私のモノを銜えさせている…!こんな風に、飼いたかった、ものだっ!」
「んぐっ、ぅぶっ、んんっ!」
えづく私の食道に直接精液が流し込まれ、激しく噎せかえそうになるものの、男が口をきつく押さえる。
「んぐ…っ…ぐっ、う」
「ふふん、飲み応えはどうだ?まだこんなものではないだろう?」
ベストとシャツのボタンが弾け飛ぶ。男の骨ばって汗ばんだ手が私の肌を撫でる。
逃げ腰を打つ私に覆い被さり、股間を弄ってくる。首筋にかかる男の荒い息づかい。うなじに垂らされる唾液。
嫌だ嫌だ。誰か助けてくれ、助けて、お
「…―お父さん!」
「お父さん、だと?」
ぴたりと男の動きが止まった。私は転がるように男の下からエレベーターの隅へ逃げる。
肺に鉛が詰まっているようで呼吸がままならない。瘧に罹ったかのように体が震える。
だって止まってしまったエレベーターからは酸素がなくなってしまう。お父さんは死んでしまう。
いや、違う。混乱している。私は今、目の前の男に襲われているのだ。
涙で歪む視界に、男が立ちはだかった。肩が小刻みに揺れている。笑っているのか。
「お父さん、お父さんね。君は傑作だなあ。君のお父さんは死んだじゃないか、エレベーターで。
助けるべきはお父さんだ。君は助けられなかったのだろう?ピストルを投げてまで、先生を撃ち抜きまでしたのに
お父さんは死んだんだ。君のせいで」
―そうだ。私は父を助けられなかった。私はまだ子供だったからエレベーターの隅で。息が出来なくて。ピストルを。
―先生の叫びが。
―ああ
目の前が暗くなる。全ての引き金を引いたのは私だったんだ。
男が再び覆い被さってくる。足の間に手が差し込まれ私に刺激を与え始めた。
「…ん…はぁ…あ…」
私の意識は夢と現実の間を行き来する。淫らな刺激に体が反応しているのがわかる。
手も足も投げ出した。私は罰を受けねばならない。私だけ罪を逃れて楽にはなれない。
――私を弄る男は、灰根だ。血走った目で私を睨んでいる。仕方がない、彼は私を恨んでいたのだ。
体を開くように指が中で蠢き、敏感な痼りを指の腹で何度も撫でられ、痺れに似た快感が疾る。
指が抜かれれば、拡げられた部分が刺激を求めて痙攣した。
「御剣怜侍」
呼ばれて顔を上げる。腰が浮くほどに私の足を抱えるのは、もう、随分声も聴いていない。
「…狩魔検事」
先生が私の足の間にいた。触れられてもいない自身の性器がピクリと揺れたのが目に入る。
その先端ははしたなく体液を零して光っていた。
期待に胸が膨らむ。私の入口が強請ってヒクついている。
先生は私を蔑むように見下すと、一息に貫いた。
「…ああぁっ!先っ、生…先生…っ!」
「イヤらしい男だな、御剣怜侍。尻を突かれてよがるのか」
空洞を埋め尽くされる充足感。
狭い肉の間を押し入られ、私は体を反らせて歓喜の声をあげる。
先生は嘲笑を浮かべながら私を貫き、掻き回し、犯す。
先生先生。貴方は私の神でした。私が貴方を撃たなかったらこんな事にはならなかったのに。
だから、先生、貴方になら犯されてもいいのです。
私は腕を伸ばし、もっと、と先生にしがみつく。
私の内側を捲り上げる程に引き出しては、縁を巻き込みながら擦るその動きに喉を枯らして喘ぐ。
何度か奥底を突かれ、熱い粘液が注ぎ込まれた。
体の中にじわりと先生の熱が染み渡る。
私はまだ達しておらず、痛いくらいに性器が膨張していた。
でもよかった、先生が満足されたなら。
息を切らして脱力している私を床に倒し、繋がったまま男が上体を起こした。
その顔は。
グレーの整えられた髪、銀色のフレームの眼鏡。忘れたことはない。
「お父さん」
困ったような、哀しんでいるような笑みを浮かべて私を見ている。
こんな忌まわしい場所で穢されて悦んでいる私に呆れているのだろうか。
お父さんは腕を伸ばし、私の頸に手をかける。
繋がった粘膜がほんの少し擦れて、私は吐息を漏らしてしまう。
やっぱりお父さんはこんな淫らな私に呆れているんだ。
私の気道を塞ぐように親指に力が入る。
そうだ、もうここには灰根も先生もいない。
私がいなければお父さんは死なずにすんだのだ。
お父さん、ごめんなさい、私があなたを守ってあげられたら。
お父さんは微笑んでいる。
全身に感じる浮遊感。
呼吸が止まる。骨が軋む。
ひどく幸せで涙が止まらなかった。
頭がぼうっとする。
白い天井が広がっている。ここは知っている。病院だ。あの日も私は病院で目覚めたのだ。
「みっ、御剣検事!気づいたッスか!無事でよかったッス!」
無事なものか。みんな死んでしまったんだぞ。みんな。
糸鋸刑事の心配そうな顔が見える。
「…糸鋸刑事…?…わ、私は…」
「覚えてないッスか?電気系等の故障で止まったエレベーターの中で…倒れてたッス…その…あの…」
糸鋸刑事は気まずそうにきょろきょろと視線を彷徨わせ、あさっての方向を見る。
そうだ、私はエレベーターで知らない男に、強姦されたのだ。
殴られ、蹴られ、犯された。
意識と記憶がはっきりとしてきた。体が怠くて節々が痛む。
「誰、が私を?」
「わからないッス。自分が御剣検事を見つけたときには誰も…ひどい有り様だったッス…うぅ…」
「大の男がめそめそするな…」
私以上にぐずる彼を見て、逆に私の気持ちは落ち着いていく。
おそらくは、この不祥事はなかったことになる。私は被害届など出すつもりはない。
これは私への罰だ。
私の魂はまだきっとあの十五年前のエレベーターに残っているんだ。
「すまない、少し眠りたい…」
「うぅ…自分は誰にも言わないッス。他言無用ッス。ゆっくり休むといいッス…」
私は夢想する。
仄暗いエレベーターの中では亡霊たちが私を手招いている。
私は彼らに私の全てを捧げる。きっと私は狂おしいまでに嬲られ、犯される。
それはとても甘美で私は子供みたいに何度も強請ってしまうのだ。
ふと頸にさわると、何だか懐かしい感触が残っている気がした。