「修行の成果を見せてあげたいよ!」
得意気に綾里真宵はそう胸をはった。
何でも必死こいて荒修行をし、霊媒の成功率及び霊をコントロールする力を高めたということらしい。
成歩堂は頑張ったね、と素直に褒め称え、真宵の――だから由縁のある人を霊媒させてくれ、というお願いを無碍に却下した。
真宵は頬を風船のように膨らます。
「なんでよ!せっかく真宵ちゃんがタダで霊媒してあげるっていうのに!」
「あのなぁ、僕は別に霊媒して欲しい人なんていないんだよ。僕の親類縁者は悉く生きてるし、
事件の関係者には会いたくないし、千尋さんはしょっちゅう真宵ちゃんと春美ちゃんが霊媒してるし」
成歩堂の気のない素振りに真宵は憤然とする。
霊媒しがいのない男だね、何だよ霊媒のしがいって。いつものどうという事のないやり取りを交わす。
「じゃあ、御剣検事、霊媒に付き合って下さい!」
真宵の向けた矛先に成歩堂はぎょっとした。キーボードを打っていた手が止まる。
御剣は先程から成歩堂と真宵のやり取りに我関せずと新聞紙の上で甘栗を剥いていた。
その手を休め、いつもの無表情で結構だ、と応えた。
「え〜、御剣検事まで〜ケチなこと言わないで下さいよ」
「私は非科学的なものは好かないのだ、その、真宵君には悪いが…」
「でも本当ですよ!何だったら御剣検事のお父」
「真宵ちゃん!」
「…すまない、用事を思い出した。失礼する」
真宵の言葉が終わらないうちに成歩堂と御剣の台詞が被った。
御剣は無駄のない動作でジャケットを身にまとうと事務所を後にする。
声をかける間もなく、成歩堂と真宵は御剣を見送ってしまう。
真宵はおろおろと成歩堂を見た。
「…ご、ごめん、あたし無神経だったかな…悪いこと…」
「いや、いいよ、大丈夫だよ。多分。御剣は霊媒が怖いんだよ」
「どうゆうこと?」
御剣は霊媒を信じることが怖いんだ。
成歩堂は御剣が残していった甘栗の残骸を眺めてそう言った。
数日後。
成歩堂が事務所に帰ってくるとテレビの音が漏れ聞こえてきていた。
奥の扉を開けるとはっきりと聞こえる。
チャンバラの効果音、勇壮なBGM、トノサマンの啖呵。
そして、向いのソファでは御剣が横になっていた。
「あ、ナルホド君、お帰り」
「ただいま、真宵ちゃん…御剣寝てるの?」
「うん。一緒にDVD見てたんだけど、御剣検事疲れてたみたいで…」
真宵は御剣を覗き込む。
「ふふ、御剣検事の寝顔、かわい〜…くないなぁ。なんか眉間に皹ができてるよ」
「疲れてるっぽかったんだろ?しょうがないんじゃないかな?」
成歩堂は上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。真宵は、お茶入れるねと席を立った。
御剣の隣へ腰を下ろす。ソファが撓み、御剣が居心地が悪そうに身じろいだ。
――御剣。
小さく呼んで、額にかかった髪を梳こうと手を伸ばした。
指先が、髪の細さに触れるその時、御剣が呻いた。喉の奥で、鳴くみたいに。
御剣の眉間の皺が深くなる。
微かに喘ぐように息をして、口が開く。何かを言うように。
――ごめんなさい。
そう、はっきり聞こえた。
何だよ、悪夢はもう見ないんじゃなかったのかよ。ああ、そうか。目が覚めて覚えているものだけが夢ではない。
記憶の心底に凝る、罪悪感や喪失感が意識の外で御剣を呵責する。
だから、未だにエレベーターを恐れ、地震に怯える。
御剣はまだ過去の亡霊を内包しているのだ。呪いのように。
「お茶淹れたよ。これ御剣検事が持ってきてくれた紅茶。いい匂いだよね」
「葉っぱごと喰うなよ?」
「食べないよ!」
真宵が紅茶を笑いながら差し出した。
ふわりと、香る琥珀色を見ながら成歩堂は真宵へ言った。
「…霊媒、してもらえないかな」
「おっ!ナルホド君、遂にその気になってくれたね!誰?お祖父さん?お祖母さん?」
「僕の祖父母は生きてるよ。僕じゃなくてさ、御剣のお父さんを…霊媒して欲しいんだ」
「御剣検事のお父さんって…だって御剣検事は嫌がってたよ?」
真宵は困ったように口元に手をやった。
成歩堂は脇にあったファイルを手に取る。以前取り扱った事件の資料がファイリングされている。
「御剣寝てるし、こっそりね。こいつ素直じゃないから実際父親を前にしたら変に強がりそうだろ?
それに、御剣のお父さんこそ、こいつに何か伝えたいことがある気がする」
御剣が父親を助けようと投げた拳銃。そこが全ての始まりなら。
成歩堂は数年前の資料の中から一枚の写真を真宵へ渡した。
写真を受け取りながら、真宵の視線はファイルの中のもう一枚、女性の写真へと注がれている。
「…そうだね、御剣検事のお父さん、何か言いたいことあるかもしれないね…」
真宵は写真を見つめると、胸に抱いて、御剣の前に膝をついた。
祈るように手を合わせ、小さく口を動かす。祝詞のような呪文が聴こえた。
死者の魂を呼び戻す。それは神の領域に踏み込む業だ。それでも人は死者と語らうことを望む。
死者の為ではなく、己の魂の平穏の為に。
御剣は霊媒を信じない。
弁護士であった父親が確かな証拠もなく灰根を告発したこと。
御剣を守るため、父親が嘘の証言をしたのなら、父親は御剣に撃ち殺されたと思っていたことになる。
だから、御剣は霊媒を信じることが出来ない。
でもそうじゃないんだよ、御剣。
真宵の体が霞む。真宵の周りだけ光が屈折しているようだ。
絵の具が溶けるみたいに空気に真宵の姿が滲んでいく。と同時に別の姿に象られていく。
そういえば霊媒の瞬間を見るのは初めてだ。
成歩堂の目の前で真宵が別人になる。それは奇跡のような――
待て。真宵が御剣信になる、するとあの装束のままなのか。それは目に毒、というかシュールというか。
成歩堂は脱いだ自分のスーツをせめて真宵にかけようと近く。
真宵の肩に触れる。
瞬間、目の前が真っ白になった。
轟音。
肉体から精神が引き剥がされる。御剣、真宵、事務所が遠ざかっていく。
何か強い力で引っ張られてしまう。手を伸ばそうにも伸ばす手がない。
ああ、ダメだ、眩しくて目を開けていられない。
白い闇の中を誰かが歩いている。髪の長い女性、パラソルをさした少女、ローブを纏った人影、
その誰でもあるようで違うようだ。
眩しさが増す。人影が立ち止まり、振り返る。男の人だ。
――ああ、彼に似ている。
成歩堂の意識は白い闇の中へと消えた。
ここは何処だろう。
男は辺りを見回す。オフィスの一室のようだ。かつての自分の職場によく似ている。
――ごめんね。声がした。
「ごめん…何かうまく出来なかったみたい…あんなに自信満々で…恥ずかしいよ」
誰だろうか。和服を着た少女がうなだれている。
「…やっぱりまだまだ修行しなきゃ。あたしがしっかりしないといけないんだもん!
よーし!これから葉桜院に行ってきちゃうよ!待っててね!ナルホド君!」
少女は一人で合点すると握り拳を作り、部屋を飛び出して行った。
何なのだろう。
男は茫然とする。
これは夢なのだろうか。
心臓が脈打っている。皮膚の下、血が流れている。温い体温。
夢など見るはずがない。何故なら男はあの日、死んだのだから。
それならこの生々しい生の感覚は何なのだ。
男は手を見る。爪が丸い。少し日に焼けている。
果たしてこれは、自分の手であったろうか。
「…ごめんなさい…」
ハッとした。
ソファに誰か寝そべっている。悪い夢を見ているのか、魘されている。男は屈み込む。
――ああ、知っている、この子のことを。
色素の薄さは自分譲りだと思っていた。
困ったことや、悲しいことがあるとそれを堪えるように眉間をしかめる癖も、自分をよく見ていた彼が真似るようになったものだ。
――どうしてお前がここにいるのだ。そんなに苦しそうにしないでおくれ。
男は青年の髪を梳き、両手でその頬を包む。男の指先の冷たさにピクリと青年の瞼が引き攣った。
悄然とした様子で目尻が光り、青年が唇を震わせる。
男は息を吸い、喉に力を込める。声帯を、空気を振動させ何年ぶりかの声を出す。
「悪い夢を見ているのかい?」
しっかりと発声出来ただろうか?やはり自分の声ではないようだ。
体内で声が反響するせいだけではない。
「………」
顔を歪めて青年が肯く。
「…大丈夫だよ、私がついている」
「………う、ん」
眉間が和らぐ。青年はホッとしたように男の掌に頬をすり寄せた。
男の手に青年の手が重ねられる。
まだあの頃は骨の細い子供の手だったのに。しなやかに伸びた節に、時の流れを感じる。
――ごめんなさい。
その表情が哀しくて、男は青年の額に唇を当てた。
青年はそれを享受しながら手を男の項へと回し、引き寄せ、口づけた。
青年の唇は乾いていて、潤してやりたくて舌を出したら、その舌を甘く食まれる。
舌のざらついた面を合わせ、裏側の柔らかい所を突っついて、きつく吸う。
温さと滑らかさが心地いい口内の粘膜。滲む唾液は青年が健気に嚥下する。
暖かく湿った吐息を飲み込む。また舌が絡んで、
濡れた音がたった。
――これは、いけない。
男が慌てて唇を離す。青年は名残惜しそうに喉を鳴らした。
その瞼は閉ざされたままで、青年はまだ微睡みの中をたゆたっているようだった。
泣き出しそうな声でごめんなさいと呟いていた。
それが過去に向けられたものならば、男はこの子に伝えなければならないことがある。
「…私はお前に謝らなくてはいけないことがある」
慈しむように、髪をかき分け顔を見つめる。
「私は何よりもお前を護らなくてはいけなかった。
あの場で、何の確証もなく誰かを告発することがどんなに怖ろしいことか、判っていたのに」
青年が呻く。覚醒が近いのかもしれない。
「私は弁護士であることよりも、お前の父親であることを選んでしまった…怜侍」
――怜侍、愛しい、我が息子。どうか。
「怜侍、お前を苦しめるものが私であるなら、許しておくれ。愛している。愛しているよ」
――どうか、幸せになっておくれ。
青年の濡れた睫毛が動いた。瞼がゆっくりと持ち上がる。
懐かしい、硝子玉のような双眸。
「……お父さん?」
もう行かなくては。
「御剣、おはよう」
「何をしている貴様」
それは成歩堂が聞きたい。間近で御剣の寝顔を凝視するなど、逆鱗に触れる。
成歩堂はパッと御剣の顔を包んでいた手を離し、間合いを取った。
御剣は大儀そうに身を起こすと、考え事をするように唇をなぞる。御剣のそんな仕草は珍しい。
「御剣、どうしたの?何か夢でも見た?」
「あ、ああ、いや。夢を見たようだ。忘れてしまったが」
御剣がどこか遠くを見やる。
「…幸せだった気がする」
成歩堂は御剣の声音に安穏を感じ、目許か緩んだ。
さては自分の知らないうちに真宵の霊媒が成功していたか。
「長居をしてしまったな。真宵君は帰ってしまったのか…どうだ、食事にでも行こうか?」
「えっ!嬉しいな!」
御剣からの誘いとは珍しい。思わず、食事の後、のことまで妄りに考えてしまう。
――御剣の部屋…僕の部屋でもいいか。どうやって連れ込もう……ん?
ズボンのポケットに何か入っている。
「洋食と和食、どちらが―…」
「や、やっぱり僕まだ仕事があったんだ…ごめん!御剣、また誘って!」
「ああ、そうか。なら仕方あるまい。邪魔をしたな」
御剣は誘いを断られた割には明るい表情でひらひらと手を振って事務所を出て行った。
あんなに機嫌のいい御剣を帰してしまうなんてどうかしている。
ズボンのポケットに入っていたのはメモ帳の切れ端だ。
成歩堂は綾里の霊媒は信じるが、そもそもオカルトは好かない。
もう一度、恐る恐るメモを見た。
『貴様は誰だ』
なんか怖い。えらい達筆でそう書いてある。紙の裏に力強く食い込んだペン先の跡がある。
成歩堂は渇いた喉に置いたままであった紅茶を流し込む。冷えていて美味くはなかった。
御剣は今晩ゆっくりと眠れるだろうか。よい夢の続きが見られたらいいのに。
成歩堂といえば背後に妙な視線を感じてしまい寒気がする。今晩は夢見が悪いこと確実だった。